本書は、英語が事実上の国際語であるとの認識の下、英語下手では日本は沈没するという危機感から書かれたらしい。だが、著者に有利な事実を飽きるほど並べて不安を煽る論述はほとんどプロパガンダで、少々気分が悪かった。
とくに終盤の叙述は不快を伴った。言語障壁が大きいのに日本人が英語習得の努力を払ってこなかったのは驚きだとライシャワーが言ったそうだが、著者は英語使用を当然とみなすこのような言葉に何の疑いも持たない。そればかりか、それを英語公用語化論に援用する。この感覚はどうにも理解しがたい。
本書は、読中に惹き起こされる気分に基づいて自分の立ち位置が判別できるリトマス試験紙のような側面もある反面、批判的に読まないと「洗脳」されるかもしれない(1)その場合、本書への批判を基調に書かれた、薬師院仁志『英語を学べばバカになる』で中和されることをお勧めする。 。
文句ばかり言っているが、日本の状況とは違うからだろうか、次の点での英語の有用性は納得できる。いわく、
英語は、優勢な多数派民族集団に威圧される少数民族にとっては、時として有効な抗議、抵抗の手段となりうる。
p.114
伊の北部同盟の地域はイタリア語を母語とせず、イタリア語からの抑圧を受けている集団だが、彼らは母語以外に英語という世界につながる有用な言語を支えとしてもっておきたいと考えているようだ。
また以下の考え方は無下に捨て置けないと考えだと思った。それは、
国語以外の他の言語をも個人のアイデンティティの表現とする
p.117
という考えだ。
個人は集団(たとえば日本)に属するものであるが、同時に集団を超える個でもある。その個として、個人の文化的アイデンティティを作り上げるうえで、世界への接近ということを志向することもあろうし、英語はその手段になりうるというわけだ。
地球人という不明概念に接続する懸念や、手段が英語である必然性はないとは感じるにせよ、何か発展性を秘めた考えではある。
脚注
↑1 | その場合、本書への批判を基調に書かれた、薬師院仁志『英語を学べばバカになる』で中和されることをお勧めする。 |
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