英語帝国主義に抗する理念 大石 俊一

英語帝国主義に抗する理念

反「英語支配」論は、ナショナリズムと結びつきやすい性質があるが、著者はナショナリズムに陥らないで論理展開している。

著者の論は、ナショナルなものを去った故郷喪失の地平で、人類の共通言語というイデアルな措定をする言語ユートピアニズムである。やや思弁に傾いているが、思索の方向性は非常に興味深いものである。

英語帝国主義に抗する理念 大石 俊一

著者はたえず中世の聖ヴィクトルのフーゴーの言葉をひいている。多くの論者に論じられているとおり、非常に含蓄の深いものだ。

故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者はすでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。


聖ヴィクトルのフーゴー
(1096-1141)

誰しも故郷やその言葉を愛するが、その執着によって見えなくなってしまうことが多くある。だから、他の地域・国・外国語に親しむのは大切だ。しかしそれも実は新たな執着になる。こうした具体的・個別的なものを超えた普遍的な地平を見よとフーゴーは促すわけだ。

ちょっとみたら仏教的な感じもするが、いずれにせよ一種の宗教的思考といってよく、それに根ざす著者の議論が、思弁に傾くのは避けがたいのかもしれない。思弁というと批判に聞こえるが、無意味といっているわけではない。著者の論は、筋肉隆々の反「英語」論とは一線を画したもので、熟考に値するものである。

反「英語支配」の論は、放っておくとすぐナショナリズムと結びつくので、議論としてあまり発展性はないのかもと思い込んでいたのだが、本書を読んで、それを回避する道を模索する論者が、著者をはじめ多くいることを知った。

英語を「拷問」にかけ解体的に用いるジョイス的な道、辺境を極め中心と反転させる道、共同体ではなく個として英語に対峙していく道などなど、議論の射程は思ったより広いようだ。